ガダルカナル戦の経緯


ガダルカナル戦の経緯戦闘による犠牲者数大本営の構想現地の日本軍部隊アメリカ軍の状況参考資料紹介資料

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開設 1999年05月03日 更新 1999年05月03日



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ガダルカナル戦の経緯

 ガダルカナル戦は日本陸軍とアメリカ海兵隊及び陸軍が大規模な戦闘をした最初の攻防地です。

 このソロモン諸島のガダルカナル島は、原住民約1万人程度が島内各地に分散して居住する、全く開発が進んで無かった島で、日米両軍とも現地の正確な地図が無い様な状態で戦闘に突入しました。

 この戦いはアメリカ軍にとっても、反撃体勢が完全に整ってなかった為に苦しい戦いになった様です。
 又、日本陸軍としてもこの地域の戦闘の準備を全く考慮してなかった為に、泥縄的な戦いになってしまいました。(この地域は日本海軍が単独で侵攻していた。)
 この為、この島の戦闘の勝敗はどちらの側にもチャンスが有ったのですが、日本側が自らの不手際により惨敗になりました。

 因みに、アメリカ軍との戦闘で互角に戦えるチャンスが有ったのは、奇襲を除けばこのガダルカナル戦とレイテ島のリモン峠戦及びミッドウェー海戦位ではなかったでしょうか。


 以下にガダルカナル戦の様相を記述します。

日本軍のツラギ進出からアメリカ軍のガダルカナル島上陸まで

日本軍の反撃とアメリカ軍の飛行場占領

日本軍によるガダルカナル島奪回作戦とアメリカ軍の防衛戦

日本軍のガダルカナル島撤退まで


日本軍のツラギ進出からアメリカ軍のガダルカナル島上陸まで

日 時 日 本 軍ア メ リ カ 軍
1942/
02/02
MO作戦発令(ポートモレスビー海路攻略)
 濠州北方方面制圧作戦として海軍側の提案により、東部ニューギニア要地のポートモレスビーを陸海軍協同で攻略、ソロモン諸島要地のツラギを海軍単独で攻略する事を大本営が決定。
 
03/30 ニューブリテン島ラバウルの海軍第8根拠地隊は、ブーゲンビル島のショートランド泊地などを占領してツラギ方面への中継基地を確保する。 
04/18MO作戦発動
 5月3日ツラギ上陸、5月10日ポートモレスビー上陸、この他ナウル・オーシャン諸島方面の攻撃を決定。
 
4月
中旬
  敵のMO作戦を日本海軍暗号の解読などで察知し、空母2隻基幹の第17機動部隊を編成するなど迎撃準備を開始する。
05/03 MOツラギ攻略部隊の呉鎮守府第3特別陸戦隊がツラギに上陸する。 
05/04 MOツラギ攻略部隊が敵の攻撃を受けた為、空母2隻基幹のMO機動部隊が迎撃に向かう。(珊瑚海海戦の戦端) 第17機動部隊がツラギを空襲し、敵の駆逐艦1隻及び小艦艇3隻を沈める。
05/08 これ迄の珊瑚海海戦で、航空部隊に甚大な損害を受けたMO機動部隊と軽空母1隻を撃沈されたMO攻略部隊主隊では、作戦行動の継続は困難と判断されMO作戦を中断延期する。(珊瑚海海戦の終結) 空母1隻その他2隻沈没などの相当な損害が出たが、敵のMO作戦を頓挫させる事に成功する。
05/18FS作戦発令(フィジー・サモア・ニューカレドニア攻略)
 米濠遮断作戦として海軍側の提案により、陸軍はFS作戦部隊として歩兵9個大隊基幹の第17軍を編成し、FS作戦及びポートモレスビー攻略の準備をする。
 
05/29 ツラギの海軍根拠地(水上機偵察部隊などの基地)が空襲される。この頃にはツラギ島の南対岸のガダルカナル島に飛行場適地が見つかっており、ツラギ防衛及びFS作戦の中継基地として陸上航空機基地建設計画が持ち上がる。 
6月
中旬
 16日に海軍第11設営隊、翌月1日に海軍第13設営隊、この他に海軍第84警備隊等が、ガダルカナル島に上陸しルンガ飛行場建設が始まる。 ツラギ攻略を手始めとした反攻作戦の計画が持ち上がる。
07/02 オペレーション ウォッチタワー(望楼作戦)発令
 反攻作戦の第一段としてツラギを攻略する事が決定される。
07/04  ガダルカナル島のオーストラリア情報部隊及び偵察機の情報により、この地に日本軍が飛行場を建設している事を確認する。
07/10 ウォッチタワー作戦発動
 ツラギ攻略作戦にガダルカナル島攻略も加わり、大規模な反攻作戦になる。
07/11 大本営は、6月のミッドウェー海戦敗北で海軍の機動部隊による攻略作戦遂行能力が縮小した事により、FS作戦の完全中止を決定する。この為、第17軍は東部ニューギニア方面の作戦(ポートモレスビー攻略等)のみを担当する事になり、ソロモン方面には陸軍の作戦部隊が無くなる。 
07/14 海軍はラバウル/東部ニューギニア/ソロモンなどの南東方面海域の作戦部隊として、巡洋艦8隻基幹の第8艦隊を編成する。 
7月
下旬
 ツラギ根拠地やルンガ飛行場などに対する空襲が活発になってくる。 この頃までに、ツラギに約1850名及びガダルカナルに約5000名の日本軍が存在するとの情報を得る。
08/06 ルンガ飛行場建設(8月8日滑走路完成予定)を毎日早朝から協力してくれていた原住民達(約1千名)が急に仕事を休む様になり、さらに翌日には一人も集まらなかった。 
08/07
早朝
 各部隊は敵の艦砲射撃を受けるまで、ツラギ方面への敵艦隊接近を察知できなかった。 攻略部隊(輸送船団約30隻と護衛艦隊約60隻)は、ツラギとガタルカナルへ艦砲射撃を開始する。
08/07
早朝
 ツラギ地区(ツラギ/ガブツ/タナンボコ島)に敵が上陸し、根拠地部隊は8月9日迄に玉砕する。
  配置部隊 約7百4十名(重火器無し)
    第84警備隊 約2百5十名
    横浜海軍航空隊 約3百5十名
    第14設営隊等 約1百4十名
 捕虜23名及びツラギ北対岸のフロリダ島に脱出した約70名以外は、全員戦死した。
 北方攻略部隊がツラギ地区に上陸する。しかし烈しい抵抗に遭い、僅かな勢力を制圧するのに2日間かかる。
  上陸部隊 3個大隊基幹 約6千名
      (戦車部隊などを含む)
    戦死者 144名
    負傷者 194名
08/07
午前
 ガダルカナル島に敵が上陸するが、配備部隊は応戦せずに飛行場周辺のジャングルに退却する。
  配置部隊 約2千7百5十名
      (重火器無し)
    第84警備隊 1百5十名
    第3特別陸戦隊 1百名
    第11,13設営隊 2千5百名
 退却の際に装備の大半を失った為、直に食糧不足になる。
 尚、設営隊員の大多数は軍属(民間から徴傭された非戦闘員)で構成されており、戦闘力の有る兵力は設営隊以外の250名程度だった。
 攻略部隊主隊がガダルカナル島に上陸する。特に抵抗も受けず飛行場を占領し、糧秣や設備などを押収する。
  上陸部隊 第1海兵師団主力 約1万1千名
      (戦車や砲兵部隊などを含む)

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日本軍の反撃とアメリカ軍の飛行場占領

日 時 日 本 軍ア メ リ カ 軍
1942/
08/07
 ガダルカナル方面の作戦担当である海軍の第8艦隊は、ラバウルの海軍陸戦隊500名を輸送船3隻にて派遣する準備をしたが、翌日までの戦況情報により敵上陸兵力が強大である事が判明し派遣を中止する。 
08/07
午後
 午前8時に出撃した海軍のラバウル航空隊(第11航空艦隊の第25航空戦隊)が、ガダルカナル方面の米軍部隊を攻撃する。しかし、敵航空部隊には損害を与えたが、敵艦船や上陸部隊に対しては大した戦果を挙げられなかった。(航空大消耗戦の戦端) ガダルカナル上空で警戒任務の空母戦闘機隊は、敵航空隊により21機撃墜され、空母部隊は後退を余儀なくされる。
08/08
深夜
 ガダルカナル方面の米軍に対しラバウルを前日午後2時半に出港した第8艦隊司令長官三川中将直率の第8艦隊主力(重巡5,軽巡2,駆1)が、ガダルカナル島とツラギ島の中間付近のサボ島周辺にて敵艦隊を攻撃し、重巡洋艦4隻撃沈2隻大破などの戦果を挙げるが、敵輸送船団及び上陸部隊には攻撃せず帰還する。(第1次ソロモン海戦) 上陸輸送船団は空母部隊の後退と護衛艦隊の大損害の為、食料や資材等の物資揚陸作業を中断して戦場離脱する事を決断する。
08/10 陸軍でガダルカナル方面に一番近い部隊は第17軍だが、作戦担当外の方面の為に直ちに増援できる部隊は無かったが、パラオの川口支隊(歩兵第35旅団基幹)の東部ニューギニア上陸準備を中止してラバウルに移動させ、更にミッドウェー攻略中止によりグアムで待機中の一木支隊(歩兵第28連隊基幹)を第17軍の指揮下に入れてトラック島に移動させ、ガダルカナル島奪回の準備をする。又、ダバオで予備隊として訓練中の青葉支隊(歩兵第4連隊基幹)も第17軍の指揮下に入れて戦力を増強させた。 
8月
上旬
  各上陸部隊は物資揚陸中断の為に食糧不足になり、ツラギ部隊では1日1食分、ガダルカナル部隊では日本軍の糧秣を押収した分を使用しても1日2食分に、それぞれ配分量を制限される。又、陣地構築なども資材や設備の不足で難航した。
08/13 ソロモン諸島方面の作戦行動を陸海軍協同して遂行する事が大本営で決定される。しかし、東部ニューギニア方面の作戦も同時に予定通り継続する事が決まった為に、第8艦隊や第17軍はガダルカナル奪回を全力で取り組む事は出来なかった。
 この結果、この時期にラバウル方面に在った陸海軍の上陸作戦に使用可能な兵力約1万4千名をガダルカナル約8千名と東部ニューギニア約6千名に分散され、作戦遂行の為の戦力不足や補給困難により両方面とも苦戦する事になる。
 
08/16 第17軍の一木支隊はトラック島からガダルカナル島に向けて、支隊長の一木大佐以下916名の先遣隊を駆逐艦6隻で急送し、本隊(約1千5百名)は海軍の横須賀鎮守府第5特別陸戦隊(約5百名)と共に輸送船3隻で出港した。
 この頃の日本軍の情勢判断は、予測米軍戦力やソ連側の情報及び現地の戦況情報などで、
「アメリカ軍のツラギ方面上陸は偵察目的であり、ガダルカナル島に上陸した兵力約2000名は戦車等の重火器を装備しているが戦意に乏しく、飛行場の破壊後はツラギに向い後退中。」
の様な楽観的な予想をしている。
 
08/17
 海軍は独自に第5特別陸戦隊の一部をガダルカナル島へ派遣しており、タサファロングに上陸してルンガ飛行場西側のクルツ岬付近の残存海軍部隊との連絡に成功する。
 尚、この頃からポートモレスビー陸路攻略部隊主力(南海支隊と歩兵第41連隊及び海軍陸戦隊など)がラバウルを順次出港し、東部ニューギニア方面へ上陸を開始する。
 
08/18
夜半
 一木支隊先遣隊はガダルカナル島タイボ岬に上陸すると直ちに進撃を開始する。翌日には飛行場方面へ将校斥候(偵察隊)を出すが、テナル川付近で敵哨戒隊に発見され数十名もの戦死傷者を出す。 
08/19 第17軍は、さらにガダルカナル島上陸部隊の戦力を増強させる為、川口支隊を28日に上陸させる事を決定する。 
08/20  ヘンダーソンと命名された占領飛行場の整備が完了し、航空部隊約30機が配置につく。
 又、この頃には敵部隊の上陸を察知し、飛行場東側のイル川西岸に防衛部隊を配置する。
08/21
未明
から
夕方
 ルンガ飛行場東側のイル川河口付近まで前進した一木支隊先遣隊は、22日到着予定の本隊を待たず重火器無しで攻撃を敢行する。しかし、イル川を渡河する時点で猛烈な銃砲火により阻止されて多数の犠牲者を出した上に、逆に午後には航空機と軽戦車5両を伴った部隊に反撃される。
 敵部隊にイル川(中川)とテナル川(蛇川)の間の東西1kmの狭隘な場所で海岸側に追い詰められた先遣隊は、軽戦車を肉薄攻撃で2両破壊するなど奮戦するが潰滅状態になり、部隊長の一木大佐は軍旗を奉焼し自決する。生存者はタイボ岬の残留部隊まで後退し、残存百数十名になった先遣隊は本隊の到着を待つ事になった。
  この戦闘での損害
    戦死者 約7百5十名
 敵上陸部隊の攻撃を撃退する。予め防備を整えていたので損害は少なかった。
  この戦闘での損害
    戦死者 34名
    負傷者 75名
    戦車 2両
08/25 一木支隊本隊及び第5特別陸戦隊の輸送船団は22日ガダルカナル島上陸予定だったが、敵航空部隊に阻害され大幅に進出が遅れており、遂には陸戦隊の輸送船や護衛の駆逐艦が撃沈されるに及んで上陸中止になる。
 又、上陸支援の為に派遣された空母基幹の機動部隊も、軽空母1隻沈没や艦載機約60機損失などの相当な損害が出る。(第2次ソロモン海戦)
 これ以降、ガダルカナル島への増援部隊や補給物品の揚陸は低速な大型輸送船では困難と判断され、夜間の駆逐艦によるネズミ輸送や舟艇機動(上陸用の大発動艇など)によるアリ輸送などで行う事になる。
 敵上陸艦隊阻止の為に前進した空母部隊は空母1隻大破などの損害を受けたが、敵の艦隊や航空隊に損害を与えて上陸を阻止させる事に成功する。
08/26 ガダルカナル島へ第ニ陣上陸部隊の川口支隊(青葉支隊の一部及び一木支隊本隊も含む)の輸送が駆逐艦などにより逐次開始される。 日本軍の駆逐艦などによる輸送作戦や艦砲射撃を「トーキョー・エキスプレス(東京急行)」と呼ぶようになる。
08/29 ジャワの第2師団を第17軍の指揮下に入れ、ガダルカナルへ向う第35旅団の代りとして東部ニューギニア攻略を担当する事になる。 
09/07 この日迄に駆逐艦で輸送された川口少将以下約4千名の川口支隊主力は、駆逐艦1隻撃沈等の被害はあったが順次ガダルカナル島東側のタイボ岬周辺に上陸した。しかし舟艇48隻で輸送された岡大佐以下約1千2百名の歩兵第124連隊第2大隊等は途中で敵機の空襲や暴風雨の波浪の為に半数近くの舟艇が犠牲になり、ガダルカナル島西側のエスペランス岬周辺に上陸できたのは約5百5十名だった。 
09/08
 ガダルカナル島タイボ岬付近に敵逆上陸の報告を受けた第17軍は、ガダルカナル奪回作戦は容易に進捗しないと判断し、補給困難などで8月28日より侵攻を抑制させていた東部ニューギニア方面の作戦部隊に対し、一部の部隊を後退させ後方要地に集結待機させる命令を出す。 敵の上陸地点であるタイボ岬付近に約1個大隊を逆上陸させるが、敵部隊主力は出発した後だったので、残留部隊などを襲った後に引き上げる。
09/11 さらに川口支隊を増強させる為、青葉支隊主力約1千7百名が、この日と14日の2回に亘ってガダルカナル島西端のカミンボに上陸する。 
09/12 川口支隊はこの日の夜に総攻撃を予定していたが、各部隊ともジャングルの内の攻撃位置まで前進するのが困難な為に総攻撃を翌日に延期する。 
09/13

から
09/14
午前
 タイボ岬から上陸した川口支隊主力の約4千名(歩兵部隊と僅かな火砲)のみで総攻撃を敢行する。
 ルンガ飛行場南側のムカデ高地から攻撃した川口支隊3個大隊は、夜明け迄に一部が高地の敵を突破して飛行場付近まで侵入し海兵隊司令部まで襲ったが、烈しい銃砲火の為に後退を余儀なくされる。
 ルンガ飛行場東側のイル川上流付近から攻撃した熊部隊(一木支隊本隊基幹)も、反撃してきた敵軽戦車6両を速射砲などで5両破壊するなど奮戦するが、敵を突破出来なかった。
 夜明けと共に敵航空機の攻撃なども受けるようになり、総攻撃は失敗と判断した川口少将は、攻撃参加各部隊にルンガ飛行場西側のルンガ川西側地区まで後退する事を命令する。
  この戦闘での損害
    戦死者 約6百5十名
    負傷者 約5百名
 敵の攻撃を察知してツラギから増援を呼ぶなどヘンダーソン飛行場付近の迎撃体勢を強化し、さらに砲兵部隊の約3千発に上る砲撃などの強力な重火器による支援で敵を撃退する。
 しかし、敵の銃剣突撃などの烈しい肉薄攻撃により各前線部隊は危機的な状況に陥り、また多量の銃砲撃により弾薬保有量も不足する様になった。
 最も戦闘が烈しかった高地は、戦闘終了後には多数の日本兵の屍体が折り重なっていたので「血染めの丘」と呼ばれるようになる。
  この戦闘での損害
  (血染めの丘付近のみ)
    戦死者 3十名以上
    負傷者 1百名以上
09/15 第17軍は川口支隊に対し、ルンガ川より更に西側のマタニカウ川西側のクルツ岬周辺の海軍部隊の位置まで退却して残存部隊と合流し待機させる命令を出す。
 これは大東亜戦争開始以来始めての陸軍の敗戦による退却命令になる。
 尚、ルンガ飛行場東側に展開していた熊部隊がクルツ岬まで退却出来たのは10月1日頃である。
 又、第17軍は第2師団を東部ニューギニア攻略からガダルカナル島奪回に転用する事を大本営に上申する。
 
09/17 大本営は第17軍の要請を受け入れ、さらに戦力を増強する為に第38師団などの部隊を南東方面に転用する事を決定する。 
09/18 大本営はガダルカナル島奪回を東部ニューギニア攻略より優先させる事を決定。これを受けて第17軍は、第2師団をガダルカナル島に上陸させ、第38師団をソロモン方面の第2線部隊として配備する事を決定する。 ヘンダーソン飛行場守備部隊などは、上陸以来始めての本格的な増援や補給を受ける。
 これにより海兵1個連隊の増援や大量の食料や弾薬などの補給を受けて、マラリアなどの疾病による戦闘要員の減少や危機的な物資不足の状況などを脱し戦力を回復する事が出来た。
 この日以降、ヘンダーソン飛行場周辺からマタニカウ川付近までの日本軍の掃蕩を積極的に開始する。
09/23 第17軍は東部ニューギニア方面の主力部隊に対しても、後退して後方要地の確保を命令する。これは、ガダルカナル島奪回へ戦力を集中した為に、東部ニューギニア方面部隊への、増援部隊や物資の輸送、特に糧食の補給が困難になった為の処置。
 この頃には、ガダルカナル奪回部隊やポートモレスビー陸路攻略部隊の最前線では、補給物資(特に食料)を定量の30〜15%程度を届ける事が出来れば良い方だった。
 上陸時に1〜2週間分の食料しか渡されなかった将兵達は、飢餓状態に入りつつあった。
 

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日本軍によるガダルカナル島奪回作戦とアメリカ軍の防衛戦

日 時 日 本 軍ア メ リ カ 軍
1942/
09/29
 第17軍は第2師団に、10月17日迄に前進してルンガ飛行場攻撃準備を指示する。
 この頃、第17軍参謀部の人事を刷新し、大本営陸軍部の参謀本部からも派遣参謀として辻中佐ら三名が第17軍に出張していた。
 
10/01 この日から17日迄の間に連合艦隊主力による支援の下、駆逐艦などの輸送により丸山中将以下の第2師団主力と第38師団の一部、そして百武中将以下の第17軍司令部が、ガダルカナル島西側のタサファロング周辺に順次上陸する。 
10/03
 丸山第2師団長がタサファロングに上陸する。 
10/09
 百武第17軍司令官がタサファロングに上陸し、コカンボナに戦闘司令所を設置する。この時に派遣参謀の辻中佐も同行する。 
10/11
 大型軍艦の水上機母艦2隻による高速輸送作戦を敢行し、資材等の他に反撃開始以来始めての野戦重砲6門をタサファロングへ揚陸させる事に成功する。
 しかし輸送作戦支援の第8艦隊の一部(第6戦隊の重巡3ほか駆2)は敵艦隊の攻撃を受け、重巡洋艦古鷹と駆逐艦吹雪が沈没、旗艦の重巡洋艦青葉が中破し第6戦隊司令官五藤少将は戦死する。(サボ島沖夜戦)
 トーキョー・エキスプレスを妨害する為に警戒中の米艦隊(重巡2,軽巡2,駆5)は、レーダーにより発見した敵艦隊を攻撃して巡洋艦と駆逐艦の各1隻を撃沈させる。しかし駆逐艦1隻沈没他3隻破損の損害を受ける。
10/13 現地状況から砲兵部隊を以ってしての正面攻撃が困難と判断された為に、海岸沿いに進撃せずアウステン山麓の南側を迂回して進撃し、ルンガ飛行場南側から攻撃する準備を10月20日迄に完成させる事を第2師団に命令する。 
10/13
午後
 ルンガ飛行場付近を海軍航空隊による爆撃の後、野戦重砲(15榴4門,10加2門)にて始めての砲撃を加える。 始めて海兵隊以外の増援である陸軍歩兵1個連隊約3000名が上陸する。
 この日、始めて敵の長射程重火砲の砲撃を受ける。この後、1日数発程度だが断続的にこの砲撃を受ける様になるが、この火砲の事を「ピストル・ピート」と呼ぶ様になる。
10/13
 海軍の第3戦隊(戦艦 金剛,榛名)がルンガ飛行場に艦砲射撃を敢行し、36センチ主砲弾918発を撃ち込んで多数の航空機や資材等を破壊する。 この日の敵のヘンダーソン飛行場に対する砲爆撃により、稼働航空機90機のうち48機が使用不能になり、弾薬や燃料などの資材や設備も焼失する。
 この頃は味方輸送船団に対する敵の妨害により補給が滞っており、備蓄の航空機用燃料が不足している時に敵の大規模な攻撃を受けた為に、一時的だが燃料不足により飛行場の運用が困難になる。
10/14
 再度、第8艦隊(残存の重巡洋艦 鳥海,衣笠)がルンガ飛行場を艦砲射撃して、20センチ主砲弾752発を撃ち込む。 
10/14

から
10/15
午前
 大型優速輸送船(8千tクラス,速力約16ノット)6隻を使用した高速輸送船団を編成して揚陸を強行する。夜までに全船無事にタサファロングへ入泊するが、揚陸作業中の翌朝より敵航空機の攻撃を受け輸送船3隻が擱坐炎上の損害を出す。残存の3隻は揚陸を中断し退避する。
 輸送船団は中断退避までに、歩兵約2個連隊、野戦重砲約2個中隊、高射砲1個大隊、独立戦車第1中隊、海軍舞鶴第4特別陸戦隊、などの人員装備の全部、弾薬や糧食などの資材を約8割程度、の物資を揚陸する事に成功する。
 
10/15 第17軍は、これ迄の物資の揚陸状況が敵の妨害などで予定通りには進捗してなかったが、攻撃を遅延させず夜襲を以ってルンガ飛行場を攻撃する事を第2師団に命令する。 
10/15
 海軍の第5戦隊の巡洋艦2隻がルンガ飛行場に艦砲射撃をするが、退避していた残存輸送船団は揚陸を中止してショートランド泊地に帰還する。 
10/16 第2師団主力(歩兵3個連隊相当)は工兵隊により啓開されたジャングル道(丸山道)でルンガ飛行場に向け順次前進を開始する。 
10/17 これまでにタサファロングへ揚陸した物資の多数が、敵の航空機の銃爆撃と駆逐艦などによる艦砲射撃で破壊/焼失する。これにより、糧食、特に弾薬が極端に不足する事になる。 
10/17
 軽巡洋艦3隻と駆逐艦15隻による輸送作戦でエスペランス岬とタサファロングへ各種部隊人員装備を揚陸するのを以って、第2師団基幹の奪回部隊上陸作戦を終了する。
 これまでの揚陸により計画数量の、人員装備のほとんど全部(約1万5千名)を上陸させたが、糧食は約半数(10日分程度)、弾薬は約2割程度(一門当り約200発程度以下)を確保させる事しか出来なかった。
 
10/19 この日迄に第2師団主力はルンガ飛行場南側の攻撃発起地点付近まで前進予定だったが、ジャングルの踏破は困難を窮めた為に進出が遅れ、攻撃予定日を22日に変更する。 
10/20 大本営は第51師団を第17軍の指揮下に入れて、さらに戦力を充実させる命令を出す。 
10/21 この頃、岡部隊(歩兵1個大隊基幹)はアウステン山に布陣する。
 この日になっても予定地点に展開できない部隊があり、22日攻撃予定を翌23日に遅らせる。
 この険しいジャングル地帯の山麓の行軍は、進むに連れて重量物の人力搬送がしだいに困難になり、山砲(分解して担いで運べる小型の大砲)などの攻撃兵器を途中で放置せざるを得なくなる。
 又、携行した糧食も5日分(21日頃迄)程度だった為に、攻撃前に食糧不足になる。
 
10/21
夕方
 右翼攻撃隊指揮官の川口少将は、一部の部隊が23日迄に攻撃地点に展開できない事と、攻撃地点が前回と同じであるムカデ高地付近の敵陣地が前回攻撃時より更に堅固に成っている事に気付き、
「攻撃を24日に延期して、攻撃地点を高地より東北側の草原地帯にすべきである。」
と第2師団司令部に意見具申するが、却下された上に「攻勢意欲無し」とみなされて川口少将は指揮官を解任される。後任として歩兵第230連隊長の東海林大佐を命じるが、歩兵第230連隊主力は攻撃位置までの進出が遅れ、結局は攻撃開始を24日に延期する。
 
10/23
午後
 第2師団主力の総攻撃の前に牽制隊の住吉支隊(砲兵部隊と歩兵1個連隊相当)は、マタニカウ川河口付近西側の米軍前線部隊への攻撃を開始する。 
10/23
夕方
 戦車隊の9両(行動可能全数)の戦車はマタニカウ川渡河時に、敵火砲の集中射撃を受けて破壊されたり渡河後に地雷に触れて擱坐するなど、攻撃参加車両は全滅してしまう。 
10/24
夕方
から
 第2師団主力がルンガ飛行場南側より総攻撃を敢行する。しかし激しい豪雨の為に夜からの突入に為ってしまった。
 那須少将以下の左翼攻撃隊(歩兵第29連隊基幹)は、地形が悪い為に苦戦したものの敵第一線を突破する事に成功するが、軍旗と共に部隊の先頭に立って突撃した歩兵第26連隊長の古宮大佐が行方不明になるなど、結局は不成功に終わる。
 東海林大佐以下の右翼攻撃隊(歩兵第230連隊基幹)はジャングルに迷い、草原を飛行場と思い込んで占領成功の「バンザイ」を発信するが30分後に取り消すなど、ほとんど攻撃らしい事は出来なかった。
 翌朝までの状況により第2師団長の丸山中将は、体勢を立て直し25日夜間に再攻撃をする事を命令する。
 敵の攻撃により一時的に苦戦を強いられるが、猛烈な阻止銃砲火や増援部隊により敵を撃退する。
10/25 第2師団のルンガ飛行場攻撃に呼応してルンガ泊地に突入予定の水上部隊は、敵飛行場占領の誤報により突入時期を食違い、敵航空機により軽巡洋艦1隻沈没、駆逐艦1隻大破の損害を出す。
 又、第17軍はルンガ飛行場占領後に飛行場西側のコリ岬から上陸予定のコリ支隊(歩兵1個大隊基幹)を、飛行場占領に関係なく上陸する事を命令するが、実現する事は出来なかった。
 
10/25
 第2師団は予備部隊(歩兵第16連隊)を左翼攻撃隊に投入して再攻撃を敢行するが、烈しい銃砲火により阻止され幹部以下多数の戦死者を出すなど、総攻撃は失敗する。
(この2日間の戦死者は2千名以上。)
 敵の再攻撃に対し、敵部隊に集中的な砲撃を加えるなど多大な損害を与え撃退する。
10/26
早朝
 第2師団の総攻撃を支援する為に行動していた連合艦隊の機動部隊(空母4隻基幹)は、敵艦隊と交戦し空母1隻撃沈、空母1隻大破、航空機多数撃墜などの戦果を挙げる。しかし空母2隻大破とその他3隻損傷及び航空機69機喪失などの損害を受ける。(南太平洋海戦) 敵機動部隊を迎撃する為に出動した機動部隊(空母2隻基幹)は、敵艦隊を前日に発見するが攻撃する事が出来ず、この日なって敵と交戦し先に空母2隻大破などの相当な損害を与えるが、その後の敵攻撃により空母1隻放棄、駆逐艦1隻沈没、空母1隻大破、その他3隻損傷や航空機81機喪失などの損害を受けてしまう。
10/26 第17軍は敗戦した第2師団主力に対し、ルンガ川上流地区に後退する事を命令する。 
10/28 大本営はガダルカナル島などの南東方面を日米決戦の場と考える様になり、先の南太平洋海戦の大戦果も考慮に入れ、第17軍の戦力を充実させて組織的に集中使用すれば戦局を転換できると判断し、独立混成第21旅団(歩兵2個大隊基幹)を第17軍の指揮下に入れるなど、ガダルカナル島奪回作戦を更に推進する。 
10月
末頃
 第17軍は第38師団主力をタサファロングに上陸させる事を決定する。又、戦力を整える為に第2師団主力をマタニカウ川渡河点付近まで後退させる。 
11月
初頃
 この頃になるとガダルカナル島の所在部隊は、マラリアなどの疾病や食糧不足による栄養失調などで将兵の戦力は著しく低下しており、火砲も高射砲を含む46門を有していたが弾薬不足により攻勢は困難な状態になっていた。
 又、ラバウル方面の海軍航空隊も航空機の大量消耗により戦力が低下し、空母部隊主力も損耗の補充や整備の為に内地へ帰還しており、海軍も積極的な攻勢は無理の状況であった。
 この頃には補給物品の輸送が安定してきており、ヘンダーソン飛行場守備部隊の体勢は更に充実し、海岸沿いを西側に向けて掃蕩部隊を進出させ反撃に出る様になる。
11月
上旬
 マタニカウ川河口付近の住吉支隊(砲兵部隊と歩兵1個連隊相当)は、敵の反撃部隊の烈しい攻勢により多大な損害を出し危機的な状況に陥るが、第2師団の歩兵第16連隊の増援を受けて防戦する。 
11/10
 佐野中将以下の第38師団司令部及び歩兵第228連隊主力が駆逐艦などにより上陸して、敵反撃部隊に対して防備を固める。 
11/12

から
11/13
午前
 ルンガ飛行場を艦砲射撃するべく行動中の挺身攻撃隊(戦艦2,軽巡1,駆14)は、途中のタサファロング沖で敵艦隊と遭遇し交戦、駆逐艦2隻が沈没、戦艦比叡は砲弾85発と魚雷2本が命中して火災が発生した上に舵が故障し航行不能になり、翌朝の敵機の空襲後に自沈処分になる。(第3次ソロモン海戦の戦端) 敵艦隊を迎撃する為に出動した哨戒艦隊(重巡2,軽巡3,駆8)は、敵と交戦し相当な損害を与えるも、最終的に軽巡洋艦2隻と駆逐艦4隻が沈没、重巡洋艦2隻と軽巡洋艦1隻及び駆逐艦3隻が大破するなどの大損害を受ける。しかし、敵戦艦のヘンダーソン飛行場への艦砲射撃を防ぐ事が出来た。
11/13

から
11/14
午前
 第八艦隊などの巡洋艦部隊はルンガ飛行場への艦砲射撃を敢行し、重巡洋艦の鈴谷と摩耶が20センチ主砲弾989発を撃ち込む。しかし帰還中に敵航空機の攻撃を受け、重巡洋艦衣笠が沈没しその他3隻が損害を受ける。 敵艦隊のヘンダーソン飛行場への艦砲射撃により航空機約50機が破壊されたが、飛行場自体は直に修復され使用可能になる。
11/14 第38師団残部と補給物資を運ぶ大型優速輸送船11隻の高速輸送船団は、9次に亘り述べ106機の空襲に遭い6隻沈没、1隻が大破し引き返すなどの大損害を被る。しかし、輸送人員の大部分は救助できた。又、護衛の駆逐艦1隻が沈没しその他3隻も損害を受ける。 敵輸送船団の接近を察知して空母部隊を急行させ、陸上航空部隊と協同して攻撃を加え多大な損害を与える。
11/14
 輸送作戦の揚陸を成功させる為に、第2艦隊司令長官の近藤中将は第2艦隊残存艦船(戦艦1,重巡2,軽巡2,駆9)を直率して輸送船団の護衛とルンガ飛行場の艦砲射撃を敢行する事にしたが、途中で敵艦隊の待ち伏せに遭い交戦、駆逐艦3隻撃沈、戦艦1隻と駆逐艦1隻を大破させたが、戦艦霧島と駆逐艦綾波が沈没した為に艦砲射撃を中止する。しかし、残存輸送船4隻のタサファロング入泊を成功させる。(第3次ソロモン海戦の終焉)
 これ以降、連合艦隊は主力艦艇の喪失と燃料不足により、ガダルカナル方面の敵部隊に対し積極的な攻勢は出来なくなる。
 敵艦隊を攻撃する為に派遣された第64任務部隊(新型戦艦2隻,駆逐艦4隻)は、レーダー射撃により先制攻撃を加えるが敵艦隊の反撃により駆逐艦3隻沈没などの相当な損害を受ける。しかし、敵戦艦をレーダー射撃により撃沈する。
11/15
未明
から
午前
 タサファロングに入泊した4隻の輸送船は、揚陸作業中の早朝から敵航空機の攻撃を受け4隻とも擱坐炎上する。揚陸できたのは、歩兵1個大隊と工兵連隊及び輜重兵連隊の主力の約2千名と、僅かの弾薬と糧食のみだった。
 これまでの輸送作戦で第38師団の約5千名を上陸させる事には成功したが、重火器等の装備や弾薬及び糧食等の物資はほとんど揚陸させる事が出来なかった。
 この為、第38師団主力の増援と、補給物品で戦力を再整備したガダルカナル島所在部隊とで、ルンガ飛行場を奪回すると云う作戦は不可能になった。
 

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日本軍のガダルカナル島撤退まで

日 時 日 本 軍ア メ リ カ 軍
1942/
11/16
 陸軍は東部ニューギニアやソロモン諸島を統轄的に指揮/管理する為に今村中将以下の第8方面軍を設置して、ソロモン諸島方面のみ担当として第17軍を指揮下に入れ、東部ニューギニア方面は第18軍を新設して担当させ、11月26日から両軍を統率させる事に決定する。
 尚、この頃の東部ニューギニア攻略部隊は敵の積極的な反撃と補給難などにより、非常に厳しい状況に追い込まれていた。
 
11/18 大本営は陸海軍協力し断固としてガダルカナル島奪回を図る事にし、12月下旬迄に中部ソロモン諸島のムンダなどに航空基地を設定して陸海軍航空隊の活動を開始し、1月中旬に増援部隊を上陸させ、1月下旬には地上攻撃を開始する作戦を計画する。 
11月
中旬
から
下旬
 この期間、敵の海岸沿いの攻勢が活発になるが、第38師団主力の防戦により撃退する事が出来た。
 この頃の第38師団以外の部隊の将兵は、戦闘による損耗と疾病や栄養失調などにより戦力が5%程度までに低下していて、戦闘行動が困難な状態になっていた。
 
11/25
 海軍は通常艦船によるガダルカナル島への補給物品の輸送困難の為に、潜水艦を使用した輸送作戦を開始する。第1回は22日の予定だったが失敗し、この日始めて補給物品の揚陸に成功する。
 これより、失敗した分を含め延べ40隻以上もの潜水艦が使用され、輸送作戦が継続される。
 
11/27 この日迄に第8方面軍(司令部はニューブリテン島のラバウル)は、以下の様な戦闘序列に編成される。
 第17軍(ガダルカナル島方面)
  第2師団,第38師団主力,第35旅団,
  一木支隊,その他の直轄部隊
 第18軍(東部ニューギニア方面)
  南海支隊,歩兵第41連隊,第38師団の一部,
  独立混成第21旅団 など
 方面軍直轄部隊(ニューブリテン島方面)
  第6師団,第51師団,第65旅団,
  第5師団の一部,第6飛行師団 など
 この戦闘序列により、始めて陸軍の航空隊(第6飛行師団 約110機)が進出する事に成ったが、実際に航空機が行動を開始するのは12月下旬頃からになる。
 
11/30
 海軍は輸送作戦の揚陸時の停泊時間を短縮する為に、ドラム缶に糧食等の補給物品を詰めて海岸近くに投入する方法を考案し、駆逐艦などでこれを実施する事になる。
 第1回目として第2水雷戦隊の駆逐艦8隻がタサファロングに向ったが敵艦隊に発見され交戦、重巡洋艦1隻撃沈3隻大破の損害を与えるが、駆逐艦1隻沈没などの損害もあり輸送作戦は失敗する。
 
12/03 ドラム缶輸送を成功させる為、第8艦隊(重巡2,軽巡1,駆1)は第2水雷戦隊(駆逐艦11隻)と共にガダルカナル島に向い、ドラム缶1500個をタサファロング沖に投入する事に成功する。しかし、陸上部隊はその3割程度しか接収する事が出来なかった。
 これより、失敗した分を含め延べ80隻以上もの駆逐艦が使用され、輸送作戦が継続される。
 
12月
上旬
  最初に上陸した第1海兵師団の将兵は、逐次新規部隊と交代する様になる。
12/09  ガダルカナル島部隊の指揮官が、海軍の第1海兵師団長バンデグリフト少将から陸軍のアメリカル師団長パッチ少将に交代する。
12月
中旬
 海軍のガダルカナル島への補給物資輸送作戦は非常に難航し、各部隊の最低限必要な糧食すら満足に揚陸させる事が出来なかった。この為、最後に上陸した第38師団の将兵らも食糧不足の栄養失調などにより戦力が著しく低下する。
 しかし、厳しい状況下でも小人数の挺進攻撃隊を編成し、敵飛行場地帯内部まで侵入し破壊活動を敢行して、敵部隊を擾乱させた。
 
12/23 大本営は南東方面の戦力を強化する為に、第20師団を第17軍に、第41師団を第8方面軍直轄に、それぞれ編入させ、第51師団を第18軍に転属させる。又、海軍も第8艦隊や第11航空艦隊などの南東方面の各部隊を統轄的に指揮/管理する為に、南東方面艦隊を編成する。 
12/28 大本営は、中部ソロモン諸島のムンダ航空基地などが敵の爆撃で飛行機の行動が困難な状態や、東部ニューギニア方面の各部隊が敵の烈しい攻勢により壊滅的な打撃を受けている状況により、ガダルカナル島奪回作戦を撤退の方向で再考する様になり、第8方面軍に対し第17軍の現戦線を整理して後方要地を確保する様に命じる。 
12/31 大本営は御前会議にてガダルカナル島撤退を正式に決定する。
 この決定は、国軍創設以来の敗戦による要地失陥と云う事態になる。
 
1943/
01/02
  ガダルカナル島方面の総兵力は、
  海軍 第1海兵師団,第2海兵師団
  陸軍 アメリカル師団,第25歩兵師団
と大規模(約5万人)になり、これらを統合する第14軍団を編成する。指揮官はパッチ少将が就任した。
01/04ケ号作戦発令(ガダルカナル島撤退作戦)
 大本営は1月下旬から2月上旬に亘りガダルカナル島から全部隊を撤収する事を命令する。又、東部ニューギニア攻略部隊についても状況により撤退させる事にする。(「ケ」は捲土重来(敗者復活)の意味)
 これにより、第17軍に転用予定だった第20師団と第8方面軍直轄の第41師団を東北部ニューギニア要地の防衛を担当させる事にする。
 
1月
上旬
  ガダルカナル島の日本軍地上部隊に対する攻撃を本格的に開始する。
01/14
 ガダルカナル島撤退部隊の支援として、第38師団歩兵第230連隊の補充兵約700名で編成する矢野大隊を駆逐艦輸送によりエスペランス岬付近に上陸させる。この時に第8方面軍参謀井本中佐も同行する。
 又、この頃よりガダルカナル方面に対する航空作戦も同時に開始する。
 
01/15 この日、井本中佐により第17軍司令部にガダルカナル島撤退命令が伝達される。 
01/16 第17軍司令官百武中将は撤退に同意し、これに全力を尽くす事を決意する。 
01/20 第17軍は各部隊に対し、エスペランス岬付近に集結し再攻勢を準備する事を命令し、幹部以外には撤退すると云う事を島から離れるまで知らせなかった。 
01/22
 最前線の部隊から順次エスペランス岬に向けて移動を開始する。この時に携行できない重火器等は処分せよと命令されたので、今まで残弾が少なくて砲撃できなかった重火砲などは、積極的に敵を攻撃する様になる。又、撤収を支援する矢野大隊と松田部隊(一木支隊基幹)も積極的に敵を攻撃し敵を牽制する。 
01/27 25日より航空部隊による攻撃が強化され、この日始めて陸軍航空隊がガダルカナル島の米軍を空襲する。 
01/29
から
01/30
 海軍航空隊は有力な敵艦隊を発見し、夜間雷撃などにより重巡洋艦1隻撃沈、駆逐艦1隻大破などの戦果を挙げる。 
01/31
 航空総攻撃の為にラバウル航空基地で待機していた航空隊は、敵の空襲により約50機が破壊されてしまう。 
02/01 第1回目の撤収として第38師団や海軍部隊など約5千4百名が、駆逐艦20隻によりショートランドに向けて帰還する。 
02/04 第2回目の撤収として第17軍司令部や第2師団など約4千1百名が、駆逐艦18隻によりショートランドに向けて帰還する。
 矢野大隊や砲兵部隊(極少数の野戦重砲及び高射砲など)からなる残存陸海軍部隊は、松田部隊の松田大佐の指揮下に入り、殿部隊として積極的な反撃により米軍の攻撃からエスペランス岬周辺を確保し続け撤収を援護した。
 
02/07 最後の第3回目の撤収として松田大佐以下の残存陸海軍部隊の約1千9百名は、重火器などの装備を全て破棄して、駆逐艦4隻に分乗してショートランドに向けて帰還する。
 しかし、この日迄にエスペランス岬まで集結できなかった将兵や独歩が困難な傷病兵などは、ガダルカナル島に取り残されたままになる。
 尚、この頃ほぼ同時期に、米濠軍の烈しい攻撃により潰滅的な打撃を受けていた東部ニューギニア攻略部隊も、上陸地点の要地を全て放棄し西北の友軍展開地帯まで自力で撤退を開始する。
 
02/09  現地部隊は、ガダルカナル島から日本軍が撤退した事を確認する。

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戦闘による犠牲者数

項 目日 本 軍ア メ リ カ 軍
作戦参加総兵力約33,600名延べ約7万名
死者約19,200名
(戦死  約8,200名)
(病死 約11,000名)
約1,600名
負傷者不明約4,700名

※ 延べ数は兵員が途中で交代している為
※ 戦死:戦闘による負傷が原因で死亡した人
※ 病死:マラリア等の疾病や飢餓による栄養失調などが原因で死亡した人

尚、輸送途中の戦死傷者及び艦艇や航空機の戦死傷者などは含まれていません。



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大本営の構想

 大東亜戦争全史(服部卓四郎 著,原書房 刊)によると、大東亜戦争開戦の目的は、
 米英蘭の対日経済封鎖を打破して、自存自衛を完うする為に、南方資源地帯を攻略し、戦争の長期持久化に備えて、政略及び戦略上の長期不敗体勢を確立する。
と云う事が、主なる着眼であり、日本の現有国力及び戦力で確実に制握し得る限度の攻略範域である、
重要資源地帯の占領確保として
  ジャワ,スマトラ,ボルネオ,マレー及びセレベス等

重要軍事基地の制圧確保として
  シンガポール,マニラ(フィリピン),香港,グアム,ウェーク,
  及びビルマ方面等
が、日本軍が終始優勢を保持して侵攻が可能な地域として、攻略作戦が決定された。


 この為、陸軍はガダルカナル戦が始まる数ヶ月前より、攻略作戦が終了した南方方面の部隊を削減し、戦略的守勢による長期戦の準備を開始したいと考えていた。
 しかし、海軍は守勢に立っては不利として積極的攻勢論を唱えており、攻略作戦が終了するとオーストラリア攻略を陸軍に提案する様になった。
 この濠州攻略案に対し陸軍は、
 戦争において最も戒しむべきは、武力戦の攻勢限度が自己の有する力を超越し、敵の策源に近く攻勢の挫折を招くことである。

(攻勢終末点の理論)
と、断乎として反対しこの案を廃案にする。
 現実問題として、この作戦には陸軍だけで兵力12個師団と輸送船舶150万総トンが必要と見積もられた為に、日本の国力では対応仕切れなかった。
 仮に大陸方面の陸軍部隊を抽出する事が可能としても、輸送船舶は一般の国民生活に必要な分を大幅に削除しなければならず、 国家が破産してしまう様な到底無理な計画案だった。
(開戦時の日本全輸送船舶663万総トンの内、陸軍が210万総トン(後に100万総トンまで逐次削減予定)、海軍が180万総トンの船舶を徴傭しており、民需用輸送船舶が273万総トンの割り当てでは最低限必要な300万総トンを既に下回っている現状であり、陸軍が計画通り解傭しなければ、国民生活に重大な影響を与える状況だった。)


 だが昭和17年初頭頃には、開戦当初の戦果が作戦計画の予想以上に成功した為に、大本営陸海軍部の陸軍参謀本部と海軍軍令部の情勢判断は、
 長期戦完遂の為、従来は守勢的戦略体勢を採るのも已むなきを予期せしめたるに反し、今や攻勢的戦略体勢に転じ得るの機運となれり。
と、変化してきており、陸軍も最終的には海軍の攻勢論に賛同する様に至り、
MO作戦:濠州北方方面制圧作戦としてポートモレスビー海路攻略
FS作戦:米濠遮断作戦としてフィジー・サモア・ニューカレドニア攻略
MI作戦:本土東正面防衛としてミッドウェー及びアリューシャン攻略
などの攻勢作戦が実施される様になり、これらMO作戦及びFS作戦を起因としてガダルカナル戦が発生した。

 そして、これらの攻勢終末点を超越した作戦は、定石通りに貴重な戦力と国力を損耗して悲惨な結末を迎えて失敗又は中止に追い込まれる。

 ミッドウェー敗戦について、大本営陸軍部の戦争指導班が記録し続けていた「機密戦争日誌」の昭和17年6月11日(海戦終結から6日後)の記事の中で、
・・・(前文省略−海軍の軽率なミッドウェー作戦を批判する内容)・・・
 陸軍作戦課もまた海軍に追随し深厚なる考慮を欠きたる気配なくはあらず。
 死児の齢を算するの愚は之を排すべきも、最高統帥の追究すべきは作戦目的に対する深厚なる考察之なりしなり。
 米濠遮断の大作戦を直前に控えて、敢えて「ミッドウェー」「アリューシャン」作戦を行わんとしたる真意どこに在りや。
 戦果のみ追究して戦争は終わるものにあらず、作戦目的を達成して始めて戦争は逐次終末に近づくものなり。作戦当事者は動もすれば戦果に陶酔し目的を忘却し、遂に軽率となりそして失敗する。

※大東亜戦争全史(服部卓四郎 著,原書房 刊)より一部を引用し、表記を現代風にしました。
とあるが、ガダルカナル戦が始まる2ヶ月前のこの教訓は、何故か結果的には生かされずに、これ以降も各地の戦場で国力を無視し攻勢終末点を超越した同様な作戦が行われ続け、そして悲惨な結末を迎える事になる。



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現地の日本軍部隊

 ガダルカナル島などのツラギ地区に最初に進出したのは、海軍の偵察目的の飛行艇部隊と陸戦隊などによる小規模部隊だけでした。
 当時この付近の日本軍は、ニューブリテン島のラバウルなどに展開する、海軍の第8根拠地隊の陸戦隊や第8艦隊(旧型巡洋艦が基幹)そして第11航空艦隊の一部などの兵力だけでした。陸軍は第17軍の南海支隊がラバウルに駐留していましたが、これはポートモレスビーを攻略する為に待機している部隊でした。

 この為に、ガダルカナル島に米軍が上陸した時に反撃できる部隊は、それほど多く展開していた訳ではありませんでした。
 ただ、ポートモレスビーを攻略する為に各種の部隊がラバウル付近に集結しつつありました。
 海軍はニューギニア東端のミルン湾のラビを攻略する為に約1千5百名の陸戦隊を準備しており、陸軍は東部ニューギニアのブナ地区に上陸予定の南海支隊主力と歩兵第41連隊が集結中で約5千名の兵力を準備中でした。
 この他トラック島方面などに、海軍には約5百名の陸戦隊、陸軍の第17軍には川口支隊や青葉支隊などの後方で準備中の部隊約5千名とミッドウェー作戦の中止により内地に帰還予定だった一木支隊約2千4百名が行動可能でした。

 これらの兵力を合計すると約1万4千名の大部隊ですが、各部隊が1ヶ所に集結していなかった事と、すでに東部ニューギニアのブナ地区に上陸した南海支隊の先遣隊が進撃を開始していて本隊の到着を待っている状況だった為に、一挙に全兵力をガダルカナル島に上陸させる訳には行きませんでした。
 もし、南海支隊主力などの東部ニューギニア攻略部隊の派遣を最低限に抑えて主力の兵員をガダルカナル島に向わせ、救援として連合艦隊から先行して派遣されていた第2艦隊主力が上陸部隊の輸送やガダルカナル島砲撃などに積極的に参加してくれたならば、戦局は大きく変わったかもしれません。


 しかし現実には、ガダルカナル奪回作戦と東部ニューギニア攻略作戦の2正面作戦が並行して行われる事になり、連合艦隊も航空機の大量損耗や艦艇用の燃料不足などの理由により、積極的には活動しませんでした。

 ガダルカナル奪回作戦の参加部隊は、兵力の逐次投入と云う最悪の形で実行され、米軍の体勢が整っていなかった8月から9月の期間に奪回部隊の戦力を集中させる事が出来ずに、各個に撃破されてしまう結果になりました。
 兵力の逐次投入は補給困難と云う状況も産み出しました。弾薬などの不足も深刻でしたが、一番悲惨だったのは食糧不足でした。そして飢餓状態になったガ島は餓島と呼ばれる様になりました。又、熱帯地方特有のヒルなどの害虫やマラリア等の疾病などにも悩まされましたが、十分な医療体制も無い上に医薬品自体も全く足りない状態でした。
 この様な過酷な状態でも奪回部隊は善く戦い続けましたが、最終的に半年間で約2万名もの犠牲者を出す惨敗と成ってしまいました。

 一方、東部ニューギニア攻略作戦の参加部隊も、作戦途中から陸海軍の戦力をガダルカナル方面に集中させる事になった為に、補給すら満足に受けられない状況になって、ガダルカナル島以上の飢餓状態になりました。
 さらに、米濠軍の烈しい反撃に遭って、逆に追い詰められて潰滅状態になってしまい、撤退時に生還できたのは作戦参加兵力約1万1千5百人の中の約5%程度ではないかと云われています。


 この現地部隊の困難な状況を、ガダルカナル戦や東部ニューギニア戦の中盤以降に第8方面軍司令官として着任した今村均中将の、
「至難なる戦局を打開するための異常なる決意」 (※大東亜戦争全史より引用)
を披瀝した訓示がよく物語っています。

 大命に依り予は自今第八方面軍を統率す。
 ソロモン諸島及び東部ニューギニア方面に作戦中なる隷下将兵は、作戦開始以来長期に亘り執拗なる敵機跳梁の下、炎熱飢餓の辛酸を凌ぎ荊棘嶮嶺の苦難を制し、激戦苦闘を重ね以って克く米濠軍反攻の鋭鋒を破摧し、其の心胆を寒からしめつつあり将兵の忠誠勇武寔に鬼神を泣かしむ。予は将兵の奮戦に対し満腔の敬意と謝意とを表すると共に、鋒鏑に斃れ疫癘に歿したる幾多将兵の英霊に対し衷心より哀悼の誠を捧ぐ。
 夫れ皇国の興廃を賭する大東亜戦争の勝敗は一に懸りて軍の双肩に在り、予は将兵と共に熾烈靭強なる闘志を以って断乎万難を克服し敵を撃破せんとす。
 全軍の将兵夫れ克く当軍負荷の重職を銘肝し純一無雑尽忠報国の大義に徹し挺進任務に邁進し誓って聖慮を安んじ奉らんことを期すべし。

※昭和17年11月26日 今村均中将の第8方面軍統帥発動の命令下達の際の訓示より
※大東亜戦争全史(服部卓四郎 著,原書房 刊)より引用し、表記を現代風にしました。


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アメリカ軍の状況

 ミッドウェー海戦の勝利によって海軍部隊に余裕が出来た為に、日本軍に対する反攻作戦を企図するようになりました。
 しかしヨーロッパ戦線でも、北アフリカ上陸を米軍約8万名と英軍約2万名の規模で計画していた為に、太平洋戦線には本格的な地上部隊の反攻戦力を割ける状況ではありませんでした。それでも、ソロモン諸島から最初の反攻作戦を実施する事になり、その第1目標としてツラギ地区が選ばれる事になりました。
 この為に作戦の中心となった海軍は、当面の間は体勢準備がまだ不充分の第1海兵師団などの部隊約2万名を使用するしかなく、陸軍の本格的な支援が無いままにガダルカナル島への上陸を開始しました。

 ツラギ及びガダルカナルへの上陸は敵地上部隊の抵抗が少なかった為に順調に成功しましたが、直に日本軍から航空部隊と海上部隊の反撃を受け、弾薬や食料などの物資の揚陸を中断せざるを得なくなりました。
 この為、後から補給部隊を送ろうとしても敵艦隊などの攻撃で思うようには行かず、上陸から1ヶ月以上も食糧不足などの苦しい体勢のままで、ガダルカナル島の占領を維持する事になってしまいました。

 しかし日本軍は最初の約1ヶ月間に、強力な部隊をガダルカナル島へ上陸させる事は無かったので、敵の攻撃からヘンダーソン飛行場を守り抜く事が出来ました。
 この後、アメリカ軍は次々と増援部隊や補給物資をガダルカナル島へ送る事が出来たので、日本軍が後から強力な部隊を投入して来ても問題無く撃退する事が出来ました。

 第1海兵師団長であったバンデグリフト少将は、後にこの様に語っています。
「もし日本軍が逆の順序で上陸して来ていたならば、ヘンダーソン飛行場は失陥していただろう。」


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参考資料

 このページを作成するに当り、以下の資料を主に参考とさせて頂きました。
★大東亜戦争全史(新装版) 服部卓四郎 著 原書房 刊
★太平洋戦争(上) 児島 襄 著 中央公論社 刊
★地獄の戦場 飢餓戦 戦記シリーズ (株)新人物往来社 刊
★太平洋戦争 戦闘地図 戦記シリーズ (株)新人物往来社 刊
 この他にも、<戦闘装備 参考資料>に記載している資料からも一部を参考とさせて頂きました。


 尚、このページは、Shimaのコラムで[ 映画「シン・レッド・ライン」の感想 ]を記述した時に、特別企画として同時に作成したものです。
Shima_net表紙のページ Shimaのコラム
  映画「シン・レッド・ライン」の感想  (映画の感想や登場する日本軍について)


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紹介資料 【追録 2007年10月30日 更新 2007年10月30日】

 「ガダルカナル戦の経緯」の内容を参考にされて、Web上の記事や出版物として作られたものを紹介いたします。
「戦史で学ぶ経営改革―ベンチマーキングから見た太平洋戦争」
川端茂樹/藤本勝美 著 (株)清文社 発行 2007年10月15日初版
(2007/01/19 引用を川端氏に許諾)


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